4/14 21:26 一回目の恐怖

私はいつものように椅子に座り、PCに向かっていた。地鳴りがし、すぐに揺れ始めた家。揺れ始めて数秒、「すぐにおさまるだろう」と思いつつ、振り返って妻と生後4ヶ月の娘を眺めていた。揺れはおさまるどころか強さを増し、「まずい」と思った瞬間、近くに転がっていた掛け布団を手に取り妻子に覆いかぶさった。次第に揺れはおさまり、かわりに泣き出す娘。あやしつつ、「こわかったね」と妻と話す。その後すぐに「大丈夫か!? 家かっづっぞ!(家から出るぞ)」と父の叫ぶ声。そのとき私はまだ、地震を甘く見ていた。キョトンとしている妻と顔を見合せ、「出るって言ったって、いつまでだよ。もう大きな揺れはこないだろう」とスルーしていた。部屋まで来てもう一度、「家かっづっぞ」と言う父にしぶしぶ家を出、車の中に入る。外では家族と近所の人たちが集まって話をしていた。

 

22:07 家の外で

大きな揺れに襲われ、しばらくして再び泣き出す娘。どうやらお腹が空いたようだ。

妻は回りの目を気にし、「家の中で授乳する」と言う。ふたりだけ家に入れるのも不安だったので、私もついていった。授乳が終わるのを待つ私は、少し横になった。その日は仕事で疲れていたため、すぐに睡魔に襲われた。起き上がるのもおっくうになり、地震への危機感も薄かったため、そして次の日の仕事に備えるため、そのまま寝てしまっていた。妻もそのときは危機感が薄く、授乳後は私の隣で寝ていたようだ。そしてそのまま二回目の恐怖を味わうことになった。

 

4/15 0:03 二回目の恐怖

「ズドン」気づいた瞬間には大きく縦に揺れていた。きしむ障子戸、棚から落ちる本、それらを横目に掛け布団を手に取り再び妻子に覆い被さった。揺れがおさまり娘をあやしていると、窓から父が怒鳴り込んできた「出らんか!地震ばなむんなあからん!(出ないか。地震をナメてはいけない)」今度はすぐに家を出た。車の中で夜を越す覚悟をしたはいいものの、落ち着かず、なかなか眠れない。ひとまず食べたり飲んだり(アルコールではない)して気を紛らすことにした。会社からの連絡はなく、もともと6:40から仕事の予定だったので「さすがに寝ないときついな」と思い、車の中で横になる。…起きたときには腰が痛くなっていた。出社準備が整い、「今から出よう」というときになって会社から連絡あり。「出られるようなら出て」ということなのでそのまま家を出る。途中にはひび割れたアスファルト、傾いた家屋、棟が壊れた家、倒れたコンクリート塀、崩れた墓石、が目に入ってくる。会社の近くに母の実家があるので様子を見に行く。家の棟は崩壊していたが、一人暮らしの祖父は無事だった。ひとまず安心し会社へ。到着後、私はすぐに倉庫内の状況をスマホに納めた。その後、自分の持ち場にいってみると、重い機械が動いていたりひっくり返っていたり。「どこから手を着けたらいいんだろう」と思いつつ、上司の指示をあおぐ。ひとまず全体に関わるところから片付けることになる。片付け中にも余震がきてきしむ、建て増しの重ねられたボロ建屋。「もう帰りたい」と何度も弱音を吐く。結局その日は自分の持ち場にはほとんど手を着けられなかった。そして、夜がやってくる。「もう大丈夫だろう」そう思い、家の中で寝る。

 

4/16 1:25 三回目の恐怖

そして今までを上回る恐怖に襲われることになった。掛け布団を以下略。今度の揺れは長い。徐々に緩やかになる中でも、「また強くなるんじゃないのか」という思いに駆られていた。ようやく揺れがおさまり家の外に出たあと、家の中から「大丈夫かーい? おっとかーい?(いるのかい)」と祖母の声がする。「もう外ん出とる!(もう外に出ている)」と叫び返す。そのときにはもう車通りが増えていた。ラジオを聴いていると「津波注意報発令」とのこと。東日本大震災の報道で津波の恐ろしさはわかっているつもりなのですぐに妻子を乗せ渋滞に巻き込まれながら、倒壊したあれこれを避け、ときには迂回しながら山に避難。そのまま夜を越す。会社からは「指示があるまで自宅待機」の指示。日が射すころ、山を下りる。帰りに母の実家に寄る。今度は小屋が倒壊していた。周辺はアスファルトから水がしみ出していた。祖父は危うく倒れてきたタンスの下敷きになるところだったらしい。ひとまず安心し家に帰る。津波注意報・警報が出てから逃げてもスムーズに移動できず助からないと考えたため、家族全員で早めに山に避難することにする。芝のグラウンドにビニールシートを敷き、車の屋根もかわして結び、日除けも万全に夕食。予報ではこの後、風雨が強まる。夕食の終わり際には、ビニールシートがバサバサと音を立て始めていた。天気予報を確認していた父は、そこにあるコミュニティセンターを開けるよう管理者と話をしたり役場に電話して怒鳴ったりしていた。「いざというときは開ける」と管理者からの言葉をもらう。が、父は待ちきれず、コミュニティセンターの二階の破れた窓から侵入を試みる。ほどなくして一階の玄関が開き、何事もなかったかのように出てくる父。すぐにでもグラウンドに停まっている車のみんなに知らせようとしている。私は「入りたくなるようなタイミングで声かけするのが一番成果が出る」と思った。祖母は「みんな家の中が怖くて来とっとだけん、だれん入らん」と言う。妻は「雨が降りだしてからじゃ、運び込む荷物が濡れる」と言う。結果、すぐに告知して回ることに。コミュニティセンターの二階は天井が崩れ落ちていた。人に案内はしたが、娘が泣くことを気にしたためか、妻は「車で寝る」と言うので私も車中泊。

 

4/17 終わらない恐怖

夜が明けて私と妻子以外はすぐに家に帰った。家族から「水もガスも大丈夫」との連絡を受け、娘を風呂に入れるために帰宅。娘を風呂に入れていても、避難の準備をしていても、少しの揺れで自然と逃げる体勢に入ってしまう自分に気づく。「もう、いつも通りの暮らしはできない」と思った。日曜日なのでもともと会社は休み。昼過ぎに連絡あり、「18日朝礼後に片付け再開」とのこと。妻と相談し、20日までは休むことにした。再び山に避難するための準備中、台所が騒がしい。「夕方には避難する」という話の解釈が個々人で異なったため起きたトラブル。母は日暮れギリギリまで夕食を作ろうとし、「はよ行くなら行くたい(早く行くなら行けばいい)」父は「置いて行くっか!みんなで行くとぞ!(置いて行けるか。みんなで行くんだ)」と叫んでいる。父は私に母を説得するよう言ってくるが、「時間決めとかんけんだろ(時間を決めておかないからだろう)」と一蹴し、「先に出る」と妻子を連れて出る。山に避難するつもりだったが、車が入れないようブロックがしてあった。歩いてグラウンドまで行ってみると、入り口にコーンが立てられ、ポールで締め切ってあった。もともと指定の避難場所ではないし、昨日の不法侵入を考えれば妥当な判断だろう。さておき、新たな避難場所を探さなくてはならなくなった。津波の心配を考えれば、できるだけ海から離れた高いところがいい。○○小学校が指定の避難場所という話を聞いていたので行ってみる。ところがそこには誰もいない。「どうしようか」とうろうろしていたら、近くの「ふれあいセンター」も指定の避難場所という情報を入手。しかも、まだ余裕があるらしい。すぐに行って場所を確保。ほかにも小さい子ども連れの家族が複数いて、妻も比較的気兼ねせずに済みそうだ。指定の避難場所なので配給もある。その日の夕は、おにぎり2つと味噌汁とお茶500mlだった。電気も水もある。ただし水道水は濁っていて、娘のミルクには使いたくなかった。ふれあいセンターでの初日は、子どもが多く、予想通りのにぎやかさだった。夜泣きはお互い様。むしろ朝夕の元気さ可愛さに、こちらも明るくなる。「最初からここに来れば良かった」と思った。が、連続車中泊で腰が痛くなっていたからこそ、横になれる場所に満足してしまった感もある。

 

4/18 優先順位は

朝礼前に社長と工場長と話をしたが、「家が大変なら休んでいいよ」みたいな思考で凝り固まっているようで会話にならない。会社は食品会社で、はっきり言って「作らなくても誰も死なないし、そのまま食べることもできない」それでも多くの社員が出社している。道路は地震前より多くの車が通っている。支援物資を運んでいる車も多いだろう。そんな中、どうでもいい食べ物を運んで道路の混雑に貢献している場合なのか?さておいて、「今日は休む」というところで話がついたのでとりあえず引き下がる。家に帰り娘を風呂に入れたりして、午前中にはふれあいセンターに戻っていた。昼の配給は食パンとジャムと水と納豆。量は多かったが、ちょっときつい。昼からは娘をあやしながら散歩した。思っていたより被害が小さい地域のようだ。夕方の配給は菓子パンとお茶。あるだけマシだが、栄養が偏る。あらためて社長に連絡。「自分が死んだら家族を養う人がいなくなる」ということを伝えたら、「それはみんな同じ状況。でも、それがお前の判断なら休んでいい」と明らかに怒った様子で返される。「生活のため」働くのはわかる。ただ、そんな社員を集めて、「出るのが当然」みたいな雰囲気を作るのはどうなんだろうか。社員の多くは捨て鉢なんだと思う。「死んだ後は知らん」という無責任さよ。この日、祖母は私の伯母(祖母にとっては娘)の家に避難する話になり、伯母が迎えが来ていた。いつまで休むか妻と相談した。「休みすぎるとみんなから白い目で見られてそのあと働きづらくなるから早めに復帰した方がいい」と妻は言う。

 

4/19 人災

朝からいったん家に帰り、娘を風呂に入れたり布団を干したりする。会社に「明日まで休む」と連絡。ちょっとだけ昼寝をするつもりが、長々と寝てしまっていた。自分が思っているより疲れているようだ。道が混む中ふれあいセンターに行ってみると、昨日まで見なかった顔が増えている。他の避難場所が危険になって閉鎖されたため、こちらに流れてきたらしい。しばらくして、ロビーの椅子に大柄な男が座った。男は施設内でタバコを吸おうとし、市の職員から注意を受けたが逆上。徐々に手がつけられない雰囲気になっていった。掴み合い・取っ組み合いが始まり、そのうちに警察官が現れた。男と話し合っていたが、最終的には「確保」だった。夕方の配給は菓子パンとドーナツと水。

 

4/20 絶望の始まり

朝から家に帰る。娘を風呂に入れ、自分もシャワーを浴びる。明日から会社。いつもの生活に戻りつつあるのに、気分は落ち込んでいく。「明日死んだら、絶対に後悔する」という思いがふくらむ。避難生活中に、娘は私を見て笑ってくれることが増えた。いつもの生活に戻れば、その笑顔が私に向けられることはなくなるのだろう。

 

4/21

仕事の途中から頭が痛い。気分が悪い。

 

4/22

朝起きて、まだ頭痛が残っている。仕事中もうつうつとした気分がとれない。「そこにあるロープで首を吊って死んでしまおうか」と思った。帰った後、妻に「死にたい」と漏らす。その後、私は口を閉ざしていた。避難所への避難もやめた。

 

4/23

仕事から帰り、頭痛と吐き気に襲われる中、妻から「まだ死にたいと思う?」と聞かれる。「うん」と答えると、妻は「私と○○(娘)のことは、大事じゃないんだね」という。私は「こんな状況で周りの評価を気にして「働きに行け」というお前こそ、俺を大事にしてない。こんな状況で俺が死んだらどうするんだ?」と返す。「そのときは会社を訴える」だと。「それはみんな同じ状況。でも、それがお前の判断なら休んでいい」と言われている以上、会社にいるとき死んでも自己責任になるだろう。わかっちゃいない。娘は予想通り、私に笑顔をくれることは減った。笑っても愛想笑いに見える。もう余震がきても体は反応しない。地震の恐怖より、日常に戻っていく絶望に支配されている。

 

電気も水も使える一見ぬるい避難生活のあと、私にとっては他人に従い続ける平凡な日常こそが絶望なのだと感じていた。会社に長時間拘束され家族のために頑張っても、家族の笑顔が私に向けられることなどないのだ。疲れ果てた私からは、家族の心を慮る余裕がなくなっていた。そんな私にこそ原因があることは理解していた。それでも、私は絶望に浸ってしまっている。私はこうして絶望をブログに吐き出すことができるが、ほかの人はそれをせずにどうやって平静を保っているのだろうか。日常が幸せだったら、「戻りたい」という思うだろう。日常が不幸だったら「どうでもいい」と思うだろう。日常が絶望だと気づいたら「死にたい」と思うだろう。私はまだ、他人に従い続ける平凡な日常が幸せだとは思えない。わかっている。絶望の原因は、地震のせいではない。私自身のせいである。